皆さんこんにちは

今日のメッセージ

「無条件の愛」

この言葉ほど私の魂を
ふるわせる言葉はありません。

神は光であると伝えられました。

しかし私にとってそれは
単なる説明でしかありませんでした。

そこに感動がなかったからです。

しかし
神とは「無条件の愛」である
と伝えられたときには、

これこそ私が目指す
ゴールであると感じました。

人はこのいただきを
目指します。

そして恋を体験します。

恋人は人を
感情のピークへと誘います。

魂の昂揚感を感じ
愛の素晴らしさを体感します。

ところが感情のピークは
引波のごとく必ず冷めていく
という過程をたどります。

愛に終わりがあるとは
一体どういうことでしょうか?

愛は永遠であるはずなのに、

冷めて行くかに見える愛とは
一体なんなのでしょうか。

ときめきを感じなくなった恋人を見て、

飽きてしまったのだろうか、
これが倦怠期なのだろうかと思います。

このことを悟ることが、

今回の私の生の大きなテーマの
一つであったように感じます。

「無条件の愛」を
感得するための、

必ず通らねばならない関門でしょう。

恋人の出現によって感じる愛とは、

条件付きの愛だということです。

その愛は恋人がいなくなったら
消えるわけですから・・・。

他人に出逢い、

愛することにより
自分の内面にあった
深い愛に初めてふれ、

自分の大いなる愛に気付きます。

人を愛するたびに感じる
自分の奥深くに眠る
大いなる豊かな愛情を、

やがては誰がいなくても
感じる事が出来るようになってきます。

プレゼントをくれたから
好きになるとか、

偉い人だから興味があるとか、

何かが出来たら
評価が上がるとか、

条件付きの愛とはまさに
三次元の愛です。

この二極の世界では
必ずその反対もあります。

何かを貰って好きになった人は
貰えなくなったとき嫌いになります。

上がったり下がったり、

揺れ動く二極世界では
必ずやがて反対の極を迎え、

好きになったり嫌いになったり
あなたの感情も揺れ動きます。

誰がいなくとも、
あなたはもともと
愛そのものです。

「無条件の愛」とは、

もともとあなたそのものであり、
そのことに恋人は必要ありません。

愛そのもののあなたが、

愛を感じるのに
他人は必要ないのです。

そのことを思い出させるために、

そのことに気付くために
他人が存在しているだけです。

他人とは内なる巨大な愛を
取り戻すきっかけでしかありません。

このことを思い出すのが
人生ゲームです。

このことを思い出し、
あなたが「無条件の愛」
そのものとして生きたとき、

あなたにはもはや肉体は
必要ないかもしれません・・・。

いや、私にはとても
そんな生き方は出来ない
と嘆く必要もありません。

もともとそうであるあなたは、

今は単にゲームの途中であり、

難解なゲームに
チャレンジ中なのですから、

高度肉体ゲームを
そんなに焦って
終わらせる必要もないでしょう。

せっかく入った
地球というゲームセンターです。

何も急いで出る必要はないでしょう。

子供のように、
遊び疲れるまで遊べばいいのです。

他人がいて愛に気付きます。

元々内側にあった愛に、
他人を反映して気付きます。

冷めてきた愛の昂揚感を
再び体験したいと、

今度は別の人に
新たなときめきを求めます。

この人こそ絶対である
と思った人との愛も
やがては必ず冷めてきます。

愛はあなたの外側に
あるわけではないのですから。

あなたが感じる愛の悦びは、
他人が外から運び込むものではなく、

あなたの選択によって、

あなた自らがその内側から
引き出しているのだと

気付くまで
あなたのゲームは続くわけです。

もともと愛そのものであるあなたは、

これからも無条件の愛
そのものでないときはありません。

ただ忘れているだけです。
あなたは今そのままで完全です。

倦怠期を、
進化のための一つの通過点であると
理解していると、

そんな時期でさえ
ワクワク感を持って
受けとめることができ、

次に起こる現象が
ただ待ちどおしくなってきます。

初めは会っているときだけ嬉しく、

離れているときは
もう心が寂しく疼きます。

しかしやがてピークを過ぎてくると、

彼がそばにいなければ
喜べなかった心が、

彼がどこにいても
嬉しいといった広い心へと
変わってきます。

喜ぶために必要であった条件が
消えてくるわけです。

すなわち条件のない愛へと
進化するわけです。

なのに人は、
それを愛が減ってきたと
解釈します。

彼はこの頃冷たくなった、

他に好きな人が出来たかも知れないと
妄想が始まります。

こうして人は
自ら与えた意味付けにより、

自らを混乱へと
おとしいれていきます。

そしてなかなか
このパラドックスに気付けません。

そんな反応がいつしか
深く意識下に沈み込み、

もはや無意識で無条件に反応しており、

そこに
自分の意味付けの選択があったことさえ
忘れ去っています。

毎日連絡をくれていた彼からの連絡が
三日に一度になったとしても、

そのことに意味を与えず、
ただ気付いていればいいのです。

人間の本質は観察する者であり、

行為する者ではないのですから・・・。

昨日も、一昨日もあった連絡より、
突然の連絡の方が喜びは大きいはずです。

ただ単に起きてくることに
気付いているようにすれば、

深い悦びは感情のピークの
ところにだけあるわけではなく、

どこの位置も悦びであったことに
気付きます。

そして状況(外界)からの
操り人形であった心が、

やがて創造者として現実を
創る位置へとシフトするのです。

そんなあなたはもはや
自由自在です。

ピーク(山や谷)ではなく、

ニュートラルなところが
悟りの頂きです。

これに気付いた人はもはや
心が上がったり下がったりせず、

いつも同じ心の位置で
いられるようになります。

そこが涅槃の位置です。

人は母親の
無条件の愛から生まれます。

母親は生まれでる我が子に、
条件は付けません。

ただどんな子が産まれるか、
生まれでることだけを
祝福しています。

そして生まれた我が子を
無条件に受け入れます。

どんなに醜くとも、
心からその誕生を喜びます。

しかし、やがて
制限された母親の意識が、

肉体に限定された知恵を授けます。

無である子供は無条件に
その制限された智恵を受け取り、

子供の限定意識ができあがります。

肉体人間の完成です。

そしてあなたのエゴが、

無条件の愛に目覚める
ゲームが開始されました。

「無条件の愛」、

これほど心地よい響きはありません。

なのに人はどうして
愛に条件を付けてしまうのでしょうか?

自分を制限された、
限定された存在として
認識している人にとって、

この無条件の愛という言葉は、
ほど遠いものであるかも知れません。

あなたは無限です。

このことを信じることが
チャレンジです。

たしかにやさしいことでは
ありません。

しかし難しいからこそ、

この旅が価値に満ちたものと
なるのではないでしょうか。

我々の求めるべきものは
異性ではありません。

真に求めるべきものは
我々の源であります。

それに気付くために
異性があるようです。

内なる異性を統合し、

大いなる我を求める時、

無条件の愛を思い出します。

内なる無条件の愛に触れたとき、

人は無条件に今ある現実を
受け入れるようになります。

今、このままが
最もいいことが解ります。

聞くこと、見ること、

感じることの全てが、

良きことのみであったことに
気付きます。

そんなあなたに
どんな問題もあろうはずが
ありません。

リラックスし、
起きてくることを
起きて来るままに楽しみます。

人や現実を
操作しようという気持が
起きなくなります。

委ねきります。

逆説的のように聞こえますが、

この時あなたは
進化の最短距離をたどり、
昇り始めます。

無条件の愛
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